潤と七 卒業写真ー2002年2月16日ver.

潤と七について最初に書いたやつ。

2002年2月16日の日付で当時やっていた個人サイト(個人サイト)に出していたやつです(無駄に長かったので、七に直接関係ない話してるとこは端折った)。堀越の卒業式でふたり並んでの囲み取材の記事が出たから、よし言っていいんだと思って一気に書いた、んだと思う。

オチとしては、潤と七の本人たちは卒業式まで互いに友達ですって大っぴらに名前を出すことはなかったけれど、父上は、息子の友達が嵐の松本潤くんで、って堀越在学中にテレビでしゃべっていたという…それ自分は後々知ったんだけど、父上のインタビューとかを先に調べていればあっさりわかったんじゃないかっていう…。

あと、以下で言う「夏」のツアーは、嵐になって2度目のコンサート、夏にアリーナサイズでやってたツアーがわりとかなり評判が悪くw、しかしチケットはわりと取りにくく、という状況で、この時のコンサートの出来に誰よりじゅーん自身が納得いってない感じがあふれ出ていたので、その話をずっと延々としています(私が)。あの、箱に入った幼稚園児のアレルギーがあった時。膝の異変が客席からでも初めてわかったのがこの時で、以下で「調子が悪い」と書いているのはこのことを含んでる。確か会報にこの時のオーラスの後で撮った楽屋前の集合写真が載ってるんだけど、一番前で足投げ出して写ってるはず(膝曲げられなかったから)。

いや評判が悪かっただけでw、情熱はあったんだ。それはずっと変わらずに。

以上前置きおわり。

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卒業写真(2002年2月16日up)

「そんな出来すぎた話はないだろう?」と、実はずっと思っていた。
個人的に「どうも松本のゆってる学校の親友というのはかの中村七之助らしい疑惑」が重要問題として浮上してきたのは、チケットがおそろしく取れなくて右往左往を余儀なくされた夏のツアーの頃だった。

「学校の友達」「すげぇ仲良い」「俺含めて3人」「1人は役者やってて1人は歌舞伎やってる」そういう話はそれまで松本がいっぱいいっぱいあちこちでゆっていたことだ。それがなんでその夏にいきなり重要問題で浮上してきたかとゆーと、その夏の松本くんはとにかく調子が悪く、普通だったらそんな調子の悪さ程度でどうこうなってしまう人じゃないはずなのに、その調子の悪さがこちらにも透けて見えてしまう、という異常事態のせいであった。いや、その事態そのものではなく、そんな調子が悪い(悪く見える)松本潤が、名古屋~福岡とツアー転戦してった直後、非常に疲労困憊なはずの時期に「歌舞伎を初めて見に行った」と発言したからである。出典は嵐音と、確かテレキッズのタイフーン日記(嵐各自のリレー日記企画)。歌舞伎を見に行って、けど疲れてたし意味わかんないし(笑)客席で爆睡してて、その後「知ってる人がいるから」楽屋にも行ったんだけどそこで「すごく上の方の人」に声かけられて、寝てるとこ見られたと思って動揺して(笑)その後すぐ帰った、と。

歌舞伎を見に行った、と言った。そんな疲労困憊の時に。調子激悪のように見えたその時に。

そこで初めて私の中で「1人は歌舞伎やってる」が意味を持った。歌舞伎初めて見に行くなら、なにもその時期じゃなくてもいいだろう。なんでそんな時に行ったんだ。その理由は「1人は歌舞伎やってる」人に会いに行ったとしか思えない。

わざわざ堀越に行くほどちゃんと歌舞伎やってる子で、松本と同じ歳の子、なんてそんなに数がいるわけがない。知人の歌舞伎ファンの子に松本の生年月日を伝えて同じ歳の子をまず調べてもらったところ、ピックアップされた子は2名。松本が「初めて歌舞伎を見に」行って、楽屋に挨拶に行ったらしい旨をその子に伝えると「あぁ、じゃぁ七之助くんじゃないですか」とあっさり言われた。その月に歌舞伎座でやっていた演目は中村一門が主な出演者だったので、中村一門ではない同じ歳のもう1人の子が松本を連れて楽屋に挨拶に行く可能性は少ないと言う。「でも七之助くんって堀越だったかなぁ?中学から続けて高校行ってないのかなぁ」とも言った。私は裏付けを求めてあちこち調べてまわり、友人知人にもこの話をして七之助が堀越であるという裏付けを探してもらっていたらあっさり「マニッシュだったかWinkupだったかでゆってた」という証言が出てきた。なんでも、編集後記みたいなページのところで、スタジオで偶然七之助と松本が会って、松本の方が「どうしてここにいるの?」的に話しかけ、「いや、学校一緒なんですよ」とスタッフに説明したという話が載っていたという。私の方は読んだ記憶がうっすらあるようなないような、といったところだったがともかくこれで話は決まった。

松本の言う親友とは、かの中村七之助のことである。でもちょっと待て。そんな出来すぎな話があっていいのか?学校の友達、「最初俺より浮いてた」って言ってたよなどっかで。七之助ってそうなのか?

私がそれからしたことは『中村七之助をめぐる旅』である。恥ずかしながらその過程で初めて『中村七之助』が彼の本名ではないことを知った。幸いにというかなんというか、彼は文字通り生まれた時から有名人だったので資料には事欠かなかった。県立図書館の雑誌閲覧室に半日こもったり、歌舞伎のサイトめぐりをしたり、書店の歌舞伎コーナーをめぐったり、やることはいっぱいあった。歌舞伎ファンの知人も、友の会的なところで配布される会報を持ってきてくれたり出まわっている「ファンの間の通説」を教えてくれたり、私の「市川っていう系統はひとつではないの?」とかいう初歩的な質問に答えてくれたり、なんかもー振り返ると本当に色々してくれて今更ながら感謝カンゲキ雨嵐である(マジでな。)

そして私は最終的に、歌舞伎座まで中村七之助を見に行った。元々いつか行こうと思っていた歌舞伎だし、いいきっかけが出来たと思った。

ナマで見た舞台の上の七之助は、なんというか、「硬質」な人だった。そして、私の方の先入観を差し引いて考えたとしても、どことなく松本潤に姿形が似ていた。なによりも、持っている空気が似ていた。硬質なんだな、とにかく。凛とした、硬質な空気の中に立っているような感じだった。似てるなぁぁぁぁぁ、とつくづく思った。松本潤中村七之助が御学友であるばかりではなくどうも親友らしい、とは出来すぎな話だと思っていた。本当、出来すぎな話だ。でも、きっとそれは現実の話なんだな、と、その時初めて納得できたような気がする。

似てないからよかった、というようなことを卒業式の記者会見で言っていたらしい。中身のことまではわからんけど、でも、少なくとも空気は似てる。似てるぞ!あんな硬質なものを持ってる人はなかなかいないと思うぞ!

学校でできた友達について、最初「俺より浮いてた」と松本は言った。「多分学校辞めるんだろうなと思っていた」と七之助は言った。「途中から仲良くなって、その時はほんと2人で遊んでましたね」とも七之助は言った。最初浮いてたのは七之助の方だったかもしれないが、その後「辞めるんだろうな」と思われるまでに学校に馴染んでなかったんであろう松本よりも七之助の方が学校に慣れるのが早かったんじゃないかと思われる。人当たりの面では、本当に小さい頃から大勢人のいるところで生きてきた七之助の方が松本よりはよっぽどいいんじゃないかなと思う。いい、というか、人当りが「上手」なんじゃないかなーと思っている。そういう七之助を介在してできた友達がいっぱいいるはずだ。だってそうじゃなければ、高校に入るまでとんと友達の話なんかしたことなかった松本が友達友達と話始めるはずがないのだ。

松本にとってえらいこっちゃだったあの夏、どう考えたって疲労困憊な中、劇場まで足を運んだのはそこに七之助がいたからだ。そういうぼろぼろな状態の中でも、会える人がいるということだ。それを思うともう、七之助には卒業祝で家一軒贈ったくらいでは追いつかない。ハワイあたりを半分プレゼントしたい気分である。

私は松本潤が好きなので、松本潤の隣りにいる中村七之助は好きである。そして、多分単体でもこの人のことは好きである。お兄ちゃんと一緒にクイズ番組に出たりすると、口では違う答えを言いながらも最終的にお兄ちゃんの回答を優先させるところあたり、そして大抵そのお兄ちゃんの回答の方が正解なところあたり本当に大好きである。

しかし、日々中村七之助をめぐる旅に精を出していたころは、まさか卒業式に二人並んで記者会見をするとは思ってなかった。今迄、暗黙の了解事項だったとはいえ、お互いにその「学校の友達」が松本潤であり、中村七之助であることをずばり言ったことはなかったから、これで雑誌だのなんだのでも解禁になるのかなと思う。対談くらいだったらどっかでできるかもしれないし。

お互い本当に有名になったら共演しよう、と。そんなことも会見でゆっていたらしい。

KTKじゃないけど、実はちょっと嵐で歌舞伎…というか日本物チックなね、そんなショーもできねーかなと野望的に思っていたりもするので。それが実現した折には(するのかよ)、七之助様始め中村一門の皆様に手を貸して頂きたいと思っている次第である。松本と七之助でそのテのショーをやるとか言いやがったら家財道具処分してでも行くから待ってろよ、ってな感じである。

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2002年のこの時に書いたショーと中村一門は、2015年の嵐のツアー、 Japonismで定式幕の使用許可をもらうことで結実するんですよ。するのかよ、って突っ込んでる場合ではなかった2002年の私。家財道具処分しなくても見に行けましたJaponism.

そんでもって2023年6月現在、松本潤は大河の主演を任されてしまって徳川家康を演っており、石田三成役で七の出演が発表になりました。

これが初共演になるんですってよちょっと。

2002年は2023年ではないので、当然2023年の私は2002年の私ではないのですが、たしかにこの日を願っていたことには違いなく。同い年の子たちはみんな子どもに見える、もっと仕事したいから高校行きたくない、そんなふうに駄々をこねていたじゅーんが実際高校で出会って、ヒトとしてヒトと友達の関係性を結べるようになったのは七がいたからに違いなく。七は七で当初じゅーんも引くほどに周囲になじんでおらず、父上はいつ次男が高校を辞めてしまうかと気を揉んでいたところに突如として現れた救世主には違いなく。

そこからずっと道が続いてきたこと、父上を喪ったその時にも支え合える存在であったこと、それを垣間見せてもらえたこと、堀越に行ったその理由である仕事を、今でもふたり初志貫徹して邁進し、結果として家康と三成として画面の中で出会うこと。

2023年の私は2002年の私ではないけれど、しにそうになりながらあの夏のツアーをまわっていた2002年の私、よかったね!

ロマンを食べる。

じゅーんと旅をしていた東大史料編纂所のH先生が若かりし頃、まだ他の大学の講師なんかをやっておられた時分に、たまたま私の通っていた学校でも講師として1コマ担当されており、その授業を1年間受けたことがある。ざっと30年前の話だ。30年前はインターネットなど身近なものではまったくなく、学生は携帯電話など持ってもおらず、ポケベル保持者が2割程度だったと記憶している。

当時、東大といえば養老孟司先生が大ブームの頃で、私の通っていた学校でも養老先生の講演が開催されたりしていた。たとえばタクシーの後部座席に脚だけがあった場合、それはヒトなのか、死体なのか、というような導入の講演内容で、養老先生の研究室の方等が書かれた死体の書籍などもとても売れていた。

私が当時受けていたH先生の授業は、受講生が歴史専攻か哲学専攻の女の子が10人ちょっとの小規模なもので、いたくのんびりとしていた。H先生も若手の駆け出しの頃で、なかなか認められないというようなもどかしい状況も多かったらしく、よく受講生である我々に対して悶々とした愚痴を述べられており、我々はそれをなんとなく頷きながら聞いていた。

時はバブルがはじける直前の頃。

その段階でH先生は編纂所の上司にあたる方とご結婚されており、当時はまだそういう例は極端に少なかったので、女性の方が職場の立場として上位にある結婚ということでもさまざまな思いがあるらしく、それはそれはいろいろなことをお話なさっていた。ただ、私の通っていた学校は女子大であり、その当時としてはめずらしく講師の旧姓使用をOKにしていたりもして、女の子のエンパワメント、ということは重要課題であり、その趣旨にH先生が逆に励まされるというようなニュアンスのこともお話していたやに記憶している。

思えば、主人や嫁はおろか、妻や夫、というような言い方も皆あまりせず、一様に「つれあい」「おつれあい」という表現を使っていたので、何かしら学内での申し合わせのようなものもあったのかもしれない。敗戦も学生運動もリアルタイムでぶつかった、という世代の教授陣の定年が視野に入る、そんな時代の空気もあっただろうと思う。

H先生も当時、ぼくのつれあいは、という言い方で、一緒にオペラに行ったがオペラのチケットはとても高額である、というようなお話などもされており、我々はそれを神妙にうなずきながら聞いていた。たくさん愚痴を聞いた後、「H先生、いつか有名になれるといいねぇ…」などと学生同士で話していたのだが、果たして現在こうなっているわけなので、良かったねぇ、と思う次第ではある。

そのH先生、ある時、史料編纂所から新田義貞の書状を持ってきた。

時は養老研究室、死体がブームといってもいい状況下で、新田義貞の書状を持ってきて、そして授業の冒頭に、死体にはロマンがあるのか、とぶち上げた。我々は、「……?」となりながらおとなしく聞いていた。

バブルがはじける直前、よく売れている本は死体(解剖学)の本、世の中はひたひたと、実学だけが尊重され、文学や史料などは役に立たぬという土壌ができつつあった。H先生はそれをとても憂いて、よく我々に愚痴っていた。

義貞の書状はわりとどうでもいいというか、よくあるというか、戦で武功をあげた誰々にこの褒美をやる、というような単純なものだった。H先生は、その書状の日付を見よ、と言う。

ここから先、義貞は転落していく。その流れを今の我々は知っているが、この時点での義貞はそれを知る由もない。そのあと、の前途洋洋さを信じてこの書状に花押(かおう・本人のサイン)を記したのではなかったか。しかしそうはならなかった。

この花押は、(後からみれば)義貞がその人生の絶頂期に記したもので、しかし、当人はそれを知る由もないのである。その先が前途洋洋だと信じていたかもしれないこの時、この瞬間、義貞は、どんな思いで花押を記したのか。

これは、ロマンである。

こんな、よくありがちと思われる史料ひとつにもロマンはあるのだ。そして。

死体にはロマンがあるのか、と。

それは今思えば、実学に押される文系の部署である史料編纂所の当時の肩身の狭さみたいなものだろうと思う。そして、やはり肩身が狭く、卒業時には実際バブルがはじけ飛んでおり、文系女子など見向きもしない企業群に対し、すさまじく邪険に扱われる我々、という未来が待ち構えていたわけだけれども、当然その時点の我々にもそれを想像する余地はない。

もし今、我々が書状に花押を記したら、それはどういう流れの中でどういう意味を未来で持つのだろう。

H先生妙にはりきってたな、という印象が残ったこの授業の少し後。

宗教学の死生観のゼミで、H先生の授業を受けていた哲学専攻の友達が、

死体にはロマンがある。

と題した発表を持ってきた。

死体にはロマンがあるのか。

縄文以前の時代にも、死体は埋葬され、花が手向けられていた証拠に花粉の跡が見て取れる。そんな発見が報道されている頃だった。

その、発見された花粉の跡こそが、ロマンではないか。

これは、死体にはロマンがある、と言えるのではないか。

……そもそも、ロマン、てなんやねん。

時はバブルのはじける直前、我々はまだ牧歌的だった。その死生観のゼミでは、学生のシスターに対し、死んだら土葬になるが家族と墓の話はどうしているのか、などつっこんだことを聞き、死んだらわからないんだから火葬にしたいと家族が言うならそれもありなのではないか、などと、世が世なら不敬罪でしょっぴかれそうなことを、ああでもないこうでもないと(わりと真剣に)角突き合わせていた。

そんなことで真剣に角突き合わせてしまう我々は、霞を食べて生きていたし、霞を食べることで生きていた。そして女の子なのに(当時はまだそういう世相ではあった)短大でなく4年制大学に来てしまった、来れてしまった我々は、それぞれ程度の差こそあれ(たとえ借りられるだけの奨学金をすべて借りまくっていようと、週7でバイトをしていようとも)環境として恵まれていることには違いなく、ゆめゆめ今の状況が自分の努力の成果だなどと思ってはならず、と、それだけは叩き込まれ、たまたま環境が良かっただけで、ただそれだけであなたの足は数多の人を踏みつけている、ゆめゆめそれを忘れるでないぞと言われながらバブルのはじけた後の世の中に放り出され、そして。

H先生は有名になり、もうあまり愚痴などは言わなくなったのだろうか。

インターネットなど周囲にはないに等しかった当時、古文書はそのものを持ち出すか、写真に撮ったものを印刷するか、ある程度まとまったものならマイクロフィルムにまとめられ図書館にある機械でそれを見ることができた。卒論に関係のありそうな時期と人の書状類があれば暗い図書館の地下で1通ずつ内容を確認していたが、およそ歴史的に何かしらの意味を持つようなものは素人目には当然ながら見つけられず、今おもてに出ている歴史とは、史実とは、川の中に眠る砂金を見つけるようなものであって、その川そのものの生活というのは砂金とはまた違う文脈で流れているのだなと思った。

汚職事件を担当しているはずの判事の書状は、ありとあらゆる人への礼状だらけだった。先日いただいたものはおいしかった、あのことはうれしかったありがとう、このあいだおしえていただいた薬はよく効いた、などなど。延々と続く礼状の宛先はその判事の生活の周囲にいた人へのものであり、その時私が書こうとしていた汚職事件そのものとはまったく関係がない。歴史、というものに現在「残っている」のはその汚職事件なのではあるが、担当判事の生活は生活として流れているわけであり、時間の多くを占めるのはその生活の方であることは勿論だ。

ロマン、とは。

その流れそのもののことなのではないか。

その流れそのものが今ここに通じていることなのではないか。

霞を食べては生きられないが、霞を食べて生きている今に通じる流れのことを。

ロマン、とは。