変わっていくことを

超個人的私内ほうしゃせんメモ。

平均が0.1とかのところで、3とか5とかになることはあっても、突然11とかになることはないこと。

でも、平均が2のところだと、突然11のホットスポットが出現しちゃったりもすること。

でも、11のところから10歩歩くと、2だったりすること。

次の日はまた数値がぜんぜん違ったりすること。

ほうしゃのう、を出す力のある物質、というのは、風とか雨で移動するので、ずぅぅっとそこにいるというわけでもないこと。

集まりやすいところは確実にあって、そういうところがスポットになること。

緑の植物が生えている土のあたり、木、雨水が溜まるところ、が、3大たまるスポットなこと。

だからそういうところの数値は高くなりがちなこと。

効果的な除染方法はひとつではなく、ケースバイケースであること。

調査する、高いところがみつかれば近づかないようにする、除染する、それをくりかえすこと。

今すぐどうこうなることはないが、気をつけるにこしたことはないということ。

特にお子さんと妊婦さんに関しては、MAXの不安に対応する行政であること。

「安全です」ではなく、「不安に対して、このように対応します」が必要であること。

徐々にではあるけれど、今後の方向性としては、「一番の不安に合わせる」ふうになっていくのではないかな、と思えること。

いろいろ話題になっている学校の水や給食の問題についても、今後は水筒とお弁当の持込・給食の併用が普通になっていくのかもしれないな、と思うこと。

それはもしかしたら、画一化が大好きなこの国の、多様性への寛容の一歩になるのかもしれないと、今日ふと思ったこと。

お弁当や水筒を持ってくる子が正しくて、給食の子がダメというわけでは絶対にないこと。

不安なお母さんお父さんがお弁当を持たせてもよい、「産地を公開してくれれば給食でいいわ」というお母さんお父さんがいてもよい、ということ。

そこから対立がおこってきたかもしれないが、最近は、折り合い、という雰囲気も出てきたのではないかな、ということ。

その折り合い、ということが、今まであまりこの国になかった、寛容、ということではないのかな、と思ったということ。

こういうことを繰り返しながら、町がつくられ、社会がつくられていくのかもしれないなと思ったということ。

生活の不安に向き合う社会とは、多様性と寛容を身につけた社会になるのかもしれないなあという、それは私にとっては希望かもしれないと思ったということ。

「どうしよう!」と不安な方にオススメするのは、
『子どもたちを放射能から守るために』菅谷昭(亜紀書房)
だということ。

具体的に何をしていけばいいかが書いてあり、読みやすいということ。

その本の最後の方に、
「もしも、被ばくが原因で病気になったとしても」「幸い日本には、最新の医療施設や優れた技術があります」
とあったのが、なにより目からウロコだったということ。

「守る」のは、「ライフ」、生活をすること、を、守る、ということなのかもなあ、と思ったということ。

なかなか、死ぬまで生きるのは大変なのかもしれないと思うこと多々だけれども、寛容を基本に、ていねいに生活していくこと、そのことそのものが、希望というものなのではなかろうか、と、思ったり思わなかったり、ということ。