郷愁のPIKANCHI

この夏、さいたまスーパーアリーナの前の暑いアスファルトの上を若干しょんぼりと歩きながら、「そういえば、ピカンチやるんですよね」っていう話をなんとなくしていた。

「そうなんですよ、8月いっぱいですね」「行きます?」「行きますー」「チケット大変だったんです?」「あ~半日くらいやってましたかね…」とか、そういう話をしながら、ぽつりと、「ピカンチの頃、嵐すっごい好きだった…」としみじみ言われて、しみじみと、あぁ、そうですね、あの頃、そうですね、ってなった。

「嵐、ピカンチの頃と何か変わりましたかね」「変わってないと思うんですけどね…」「なんでこうなったんでしょうかね…」「なんででしょうね…」「まぁ、悪いことじゃないっすよね…」「ですよね…」って、やたらしみじみした。

ピカンチの「頃」。
ピカンチ、って言葉は、直接的に映画のことを指しているのではないのよ、ね。

ピカンチ、とは、映画そのものを指す言葉ではなく、ピカンチをとりまく状況だとか、ピカンチの中にいた嵐のその時の状況だとか、写真撮ってくれた健ちゃんさんだとか、イノッチ先輩だとか、売れないサブカル嵐につきあってくれたピカンチのあの頃の製作陣だとか、海のものとも山のものともつかなかったJ Stormの存在だとか、そういうこと全部ひっくるめたその頃を表す言葉。それが、ピカンチ、だった。

ピカンチ、という言葉そのものがもう郷愁の只中にあって、だから、ピカンチっていう言葉だけでもう泣けてくる、とか、そういう、とてもとても手前勝手なばかばかしい郷愁が含まれていて、それを後生大事に抱えながら歩いている。

歩いていたのだ、ということに、気が付いた。
後楽園の大きいホールにいっぱいの人のなかで、ピカンチの3つめが始まって、バックミュージックに、あの、なんともいえない、悲しい音、最初の、悲しい音が流れた時に、本当にパブロフの犬のような勢いで、ごーごー泣けてしまった時に。

2001年の秋、日テレ深夜で『真夜中の嵐』が始まり、ちょうど同時期に嵐は所属レーベルをJ Stormに移した。新しいレーベル、事務所が抱え込む、トップにいるのはジュリー。
「……それは、いったい、なにが、どうして、こうなった……?ジュリーってこんな表舞台出てきて本格的にやるの、はじめてじゃない……?」

2002年、発売されたシングルは3枚。500円のワンコインCD企画と銘打って、a Day in Our Life、ナイスな心意気、そして、PIKA☆NCHI
映画PIKA☆NCHIの公開とシングルのリリースは10月。同じ月、フジテレビ土曜昼12時に『なまあらし』という新しい冠番組が始まった。私の記憶が正しければ、シングルPIKA☆NCHIの初披露は、この、『なまあらし』の初回のことだ。
a Dayと同じくらい、今までの嵐になかったものがつまってる!すばらしい!いけるんじゃないのこれ!嵐いけちゃうんじゃないのこれ!!
しかし。
……シングルはともかく、この、初回『なまあらし』の視聴率は、たしか1%台だった。

2004年2月、シングルPIKA★★NCHI DOUBLEリリース。3月、映画公開。
2003年12月から04年1月にかけて、冬コン LIVE IS HARD だから HAPPY、を名古屋・横アリ・城ホールでやっている。私の記憶が確かならば、この城ホール最終日オーラス、アンコールの最後に、新曲です、といってピカンチダブルが初お披露目された。
すっっっごくいい曲だと思って!ひとりずつのソロでつないでくパートとかあって!ほんっっっとすばらしいと思って!売れちゃう!売れちゃうわ!嵐これ売れちゃうんじゃないの!
……初動10万枚に届きませんでした。
たしか、初動売上の最低記録だったとおもう……。

ピカンチの頃。
数字なんかぜんぜん出せなかった頃。
ツアーで全国まわりまくってた頃。
2002年夏ツアーがHERE WE GO!、危機感しかなくて、毎晩5人で集まってた時。
冬ツアーが新嵐(アタラシアラシ)、大阪に健ちゃんさん来た時

2003年夏ツアーがHow's it going?、松山に行った時。「愛だよね!」だった時。
冬ツアーがLIVE IS HARD だから HAPPY、ババ抜きとか缶蹴りとかしてた時

ピカンチの頃、その真っ只中の頃。
ピカンチというその一言に含まれる郷愁。

3つめのピカンチは、本当に、最初のひとつの音だけでその郷愁に包まれて、数字なんかひとつも出せなかったし、お荷物ってばかにされてたけど、でも、ほんとにほんとに好きだったよ、と、暑いアスファルトの上にもう一度言葉を重ねてしまう。

これは、郷愁だ。

そもそも、3つめのピカンチそのものが、郷愁を隠していなかった。

あれからずいぶんたちすぎて、状況が変わりすぎた今やるわけだから、前2作を知らなくても大丈夫なようにつくられているその分、郷愁が隠せないし、隠せないどころか、全面的に押し出しているような雰囲気もあった。

クライマックスはどこだろう。
全員30すぎたと自分たちで言うところか。
全員30すぎたのに、漂い続けるあまりに圧倒的な後輩力とでも呼べそうなものと、変わらない内向きさ加減。楽しかったり困ったりどうしようって思ったりした時に、とりえあえず5人で円になろうとするところ。はしゃぐ周囲と対照的に、ぽつんと浮かび上がるような、途方にくれた顔をする5人に、たたみかけられる「おかえりなさい」の合唱。

そもそも嵐は、基本内向的でテレ東の番組スタジオでSMAPとバスケがしたかった中華屋の長男と、情熱がありすぎて空回りしまくる上昇志向ありまくりのこどもと、いつの頃からか裏方志望を抱える常に情緒不安定な永遠の中2と、こんなギャンブル性の強い職業選ばなくても人生充分やってける日吉の子と、その年齢でもうやること全部やりきったみたいな顔して逃亡を企てていた仙人が、ほとんどだましうちのような勢いでハワイに連れて行かれたことに端を発する。

だましうちのハワイから15年。そのまま、30すぎてしまったことに、もしかしたら本人たちが一番びっくりしているのかもしれない。一番びっくりして、途方にくれて、でも、おかえりなさい、と、言ってくれるところがあって、でもだからってそれに超よろこんだりするわけでもなく、「はぁ……」って顔してきょとんとしてる。

人生は「はぁ…」の繰り返しで、それは30すぎても変わらない。
今は「たぶん」ハッピー。とりあえず、生きてる。だましうちのあの時からずっと、まわりを見れば同じようにきょとんとしてる見慣れた顔の奴がいて。

ラストシーン、並んでいる今の嵐。えへへ、って肩を並べて挨拶してる。

『ちょちょちょっ、待ってくださいよ!よろしくお願いしますよ!』

変わんないなぁ。

内輪受けって指さされてもいいの、たぶん。

いつまで後輩の気でいるんだって言われてもいいの、たぶん。

それが嵐なんじゃね?だから嵐なんじゃね?っていう肩肘のはらなさと、強い郷愁が詰め込まれたスクリーン。

郷愁を抱えたまま、これからも一緒に、怒ったりしょんぼりしたり笑ったり、最高だ!って叫んだりできたらいいよね。

おたんじょうび、おめでとう。