今なお不思議の体感温度

結論は「今なお不思議」でいい。

実際、「今なお不思議」だと、思ってる。

ハワイからこっち、いろいろと懐古シリーズが続いていて、嵐の当人たちが望むと望まざるとにかかわらず懐古しないと番組が成り立たないみたいな空気もあってだね。それを見てるこっちもなんだか懐古モードに突入する。もうほとんど覚えてもいない気もするけれど、画面のこっち側から見ていた体感温度は、途切れ途切れに残ってる。

自分がすごく真剣にファンサイトというものをやっていたのは1999年から2004年くらいまでで、その間メンバー個々のドラマとか仕事でその個人を知って嵐を知ってTEMPESTにたどりつきましたぁ…みたいなメールは結構な数もらっていたんですけど、桁が違ったのは松潤が慎を演った時の『ごくせん』なんす。この時はそれまでの比ではなく、しかもブームが長かった。かなりの長い期間、「はじめまして、突然すみません。ごくせんで松本潤くんを知って…」って書き出しのメールをもらい続けてたんす。

ごくせんは2002年春夏。
ヒアウィゴーのツアーで、毎回朝5時まで話していたのが2002年の夏。
ジェーストから初のシングル、a Day が出たのが2002年の頭。
そういう、2002年があった。

2003年夏はハウズで松山に行ってる。最後の20歳の松潤バースデー。
2003年年末~2004年頭が、レギュラー的にやっていた最後の冬コンになった。
この時にニノと松潤の成人式があって、嵐が全員20歳を超えたのが2003年。
体感で言うと、2003年の松山のチケットを、私は結局2枚余らせている。
もっと正確にいうと、松山のチケットを1部2部合わせて6枚余らせていて、4枚さばいて2枚結局さばききれなかった。

2004年夏、初の24時間テレビパーソナリティー。
夏のツアーはいざなうで、ツアーを回りながら24時間テレビのプロモーションをしていた。

いざなう、のツアーの体感。
チケットが、予定通り取れた。
これはどういうことかというと、それまでは、「この名義でこれとあれを申し込むと、これは当選するけどあれはもしかしたらダメかも、だからあれはこっちの名義でも入れておこう」ってなると、「ダメかも」の公演も全部取れてしまって、余剰が出る、というパターンだったのね。
それが、この時は、すべてが予定通りだった。「ダメかも」の公演が、普通に落選した。
浜松公演のチケットに周囲が結構苦労していたイメージがあって、「……あれ?嵐、ちょっと売れてんじゃないの……?」と、思った。

が、実際は24時間テレビでトップになろうねと泣いて、鼻で笑われていた。

2004年の冬から2005年頭にかけてウエストサイドストーリーをやっている。

迎えた2005年の夏がOne。
ムービングステージ初登場。
体感で妙におぼえているのは、代々木の時にちょっとだけ遅れて入ったらちょうど登場するところで、客席が揺れるというか、割れるというか、それまで聞いたことないような音がしたことで、代々木だからそういう音の伝わり方をするだけの話なんだけど、でも、ドンっ、というか、ドカンっ、みたいな音がぶつかってくるみたいな感じで、強さ、みたいなものを初めて感じた。

2005年10月が花男。のだめがボツって、ぎりぎりでキャストかき集めて花男になったとやっぱり鼻で笑われながらのスタート。
11月にWISH発売。世間は青春アミーゴが席巻していてその勢いは3週目でも衰えず、必死握手会を急遽開催in幕張。
寒かった。(そりゃそうだ)。ずぅぅぅぅっとWISHのCDがかかってて、この時の影響でイチオクノホシはアカペラで歌える(どうでもいい情報)。
スタッフが大勢いて、声をからしてCDを売ってくれていた。
終了後、無事1位を取れた後、翔くんから重い重い『迷惑メール』がきた。

そして、花男が、当たった。当たった、としか表現の仕様がない気がする。

そういう意味では、当たった、ことはこれまでにも個々であった。潤くんに関していえば、慎だってものすごく当たったし、ブームも長かった。

でも、この時は、花男が当たっている、と認識されて、ブーム的なものが続いて結局リターンズができたし映画にまでなったし、それが続いている間に硫黄島があって、いろんなものが途切れ途切れではなくて、重なって積み上がっていくようなイメージ。

2006年は1月に智さんのソロコンと翔くんのソロコンがあって(ものすごく余談だけど、このあたりの時期の社長のソロコンブームって一体なんだったんだろうと今でも時々思い出す…)、夏がCool&Soul。

そして幕開け第二章、だった、確かに。
それは体感としてもあった。
ジェットストーム、初のアジア公演があって、この年の12月に、ドーム公演決定の報。

事務所で押さえてたドームが空いてしまった。
それだけの話だったと思う、この時は。
嵐のために押さえられたドームじゃない、と思った。
けど、じゃあどのグループにドーム振ろうかってなった時、手の届くところに嵐がきていたのだ、手の届くところにいたのだ、っていうことがうれしくてしょうがなかった。

2007年。アラウンドアジア凱旋公演。アリーナサイズで1日3回やってる。
「次はドームで待ってるぜ!」と言われたことがしぬほどうれしいと当時のメモにある。

2月、ラブソーが発売。これが、デビューした年以来初で、売上が40万枚を超えた。

4月、ドーム公演in大阪。5月、ドーム公演in東京。

夏のツアーが Time。二転三転して、オーラスが結局ドームになった。

2008年、6月にOneLove発売、8月がtruth。
智さんのドラマ魔王の主題歌タイアップtruthは、上昇気流の決定打になったと思う。
前から見ている人も、つい最近見始めた人も、これ!っていう、待ってた!っていう、全部の熱を吸収してできたみたいなのが、truthだった。
体感として、自分はこの時初めて、初回盤が買えなかった。売れるって、こういうことなのか…!?って、なんだか不思議だった。

この時のツアーはもう5大ドーム。個人的な思いでは、この時はすごく嵐がグラついている印象。
2回目のアジア。
そして、最初の国立。ここですばらしく上手に着地したという体感がある。もう大丈夫、もう売れても、売れ続けてもグラつかない。多少グラついても、ちゃんと着地できる。もう大丈夫。

2009年、5×10。豪雨の国立。本気の豪雨、でも、客席が動かない。

現在、2015年。体感としては、「高止まり」。豪雨の国立から、客席はあまり動いていないし、動いても後から後から入ってくる、イメージ。
いつチケット取りやすくなるんですかっ!いつ人気落ちてくれるんですかっ!…っていう。
なんかあって人気落ちたらこぼれた砂は全部拾ってやるからまた松山でコンサートしようぜ!と、体感としては叫びたい。

ざっくりすぎるざっくりだけど、現象と、それに対する自分の体感としてはこんな感じ。
嵐本人たちが、やってることはそんなに変わらないんじゃないかと思う。
降ってくる仕事量がしぬほど増えて、その大きさがしぬほど大きくなってるだけで。

キッカケとか上昇気流ができたこと、決定打はあったと思うけど、では、理由は?と聞かれると、それは、体感としても、

今なお不思議。

今なお不思議な、体感温度