クリエから、空の果てまで

 入口で、チケットをもぎられた後に手渡される搭乗券の、エーワンかコクヨかのミシン目の跡のうっすらとしたザラつきを、そこに触れた指の感触を忘れたくないと思う。

 クリエ、という言葉で表されるものはなんだろうと考える時、それは、意志であろう、と、思いたい。

 地下にあって窓がない、行き止まりの劇場のその奥に、最初はたぶん空いたそこを埋めるためだけのものだったはずの博打みたいな公演は年々祭り気分を増し、むしろ劇場の外にできる長い長い行列が話題をさらう。

 この列をもってして、彼らをここから出してくれ。

 地下にあって窓がない、行き止まりの劇場のその奥で、中世のサーカス小屋もかくやというような人工的な暗闇にともされる照明の明るさを頼りに、自ら発光するような顔と体と心に贈られる声援。

 この声をもってして、彼らをここから出してくれ。

 しかし、ここから出た先が、薔薇色の未来ではないことをわたしたちは知っている。

 そして、行き止まりのこの劇場が、薔薇色の今であることをわたしたちは知っている。

 Jr.、という、ただひたすらに不安定なそのポジションを考える時、いずれはいなくなるというその未来をなんとか先延ばしにできないかとあがいている今この状況を考える時、クリエの単独公演をつかみ取れることは、もうそれは、Jr.のすごろくで言えば、ある意味、「あがり」であってもおかしくはない。

 もう、これがゴールになっちゃうんじゃないのっていうくらいのひとたちと、べつにぜんぜんそうじゃないっていうひとたちが、ただJr.というだけのくくりで窓のない劇場で同じように公演ができて、しかも、Jr.じゃなくても何かをつかみにその扉を蹴破るひともいるなかで、すごろくは混乱する。

 たぶん、何種類もの「あがり」があって、それはひとつも形としては見えないんだろう。

 クリエ、という言葉で表されるものはなんだろうと考える時、それは、意志であろう、と、思いたい。

 何種類もある「あがり」の形も、本人たちが考えた結果にたどりつくものだと思いたい。

 本人たちに自由になることなどなにひとつないのかもしれないけれど、しかし、クリエ、というこの不可思議な吸引力を持つ言葉の劇場には、確実に本人たちの意志が見える瞬間がある。意志が手触りとなって、指に伝わる瞬間がある。何よりその、意志の背中を押したいと願う。叶うものならば。

 ぼくたちは、これがやりたい。こうしたい。この曲を歌いたい。この曲をこんなふうに踊りたい。ぼく「たち」は、ぼく「たち」として、このクリエで、ぼく「たち」を表現したい。ぼく「たち」を、わかってほしい。

 そして、この曲のここでみんなには、こうしてほしい、あぁしてほしい。

 ぼく「たち」と一緒に、ここで、薔薇色の今を見ようよ。

 薔薇色の今は、未来につながる色になれるか。

 地下にあって窓がない、行き止まりのその劇場から、彼らは、そしてわたしたちは、すごろくの「あがり」を越えて、飛行機に乗って飛び立つことができるのか。

 一足飛びでなくてもいい。002便を003便に、少しずつ便数を増やしていくことでもいい。滑走路が長くてもいい。長い長い滑走路の先に、テイク・オフする瞬間があることを今は信じたい。意志の力の背中を押したい。

 もう、搭乗券は、それぞれの手中にあるのだ。