駆ける情熱

この夏ずっと考えていたことは、コンサート、とは、育つ、ものであるという認識が自分の中に存在する、っていうことだった。
 
この夏はちょこちょこ現場に行っていた。いろんなとこ。
 
ちょうどお盆の頃、ともだちと現場前にぐずぐずしゃべりながら、これから見るもののポイントレクチャーを受けていた。その時点でそれを見てないのは私だけ。
 
これがあぁでね、こっちがこうでね。
ふむふむ。
楽しいんだよ、楽しいんだけどね全体的にはね、でも、惜しいなぁっていうところがあって。
ふむふむ。
でも楽しいんだよ。
ふむふむ。
 
これが惜しいんだよねぇっていうのは、変わっていったりとかしないの?
変わる?
うーん、変わるというか、育つ。
 
その時点で、私はふうまくんのソロコンに3回ほど行っていた。
今年は去年と比較してすごくスタイリッシュにつくられていて、若干客席が戸惑っているような印象が初日にはあったものが、客席がそれに慣れて、だんだんコンサートがコンサートとして育っていっているという渦中にあって、この、育つ、っていう感覚がすごく好きなんだなーって思ってて、みたいな話をした。
 
だから、構成が変わるというか、育つ、って感じで、構成は変わってないんだけど。
構成、昔はすごく大幅に変えてたこともあったけど、最近は…。
細かい手直しみたいなのはあるけどね。
ふむふむ。
 
「まぁ、終わり方4回も変えるとかはないよね」
 
「まぁねー!!」
 
…つって、その話は終了した。
 
終わり方4回も変えた人、その人の名を松本潤という。
大昔の話だ。
嵐の夏のコンサートツアーの初日、大阪城ホール、2回公演×2日間。
それ、全部、終わり方を変えてきたことがあった。

デジタリアンの時に、本編最後の曲で奈落に飛び込んだ、あれ。
あれをやろうとしていた、当時の潤くん。

当時の、精鋭スタッフでしかなかった客席でさえ、盛大にどうしていいかわからなかった、あれ。
試行錯誤を繰り返す本人たちと同じように、試行錯誤を繰り返していた、もうどう考えてもスタッフでしかなかった客席。

今年、アリーナツアー、を、嵐は決行した。
たぶん、嵐の一番最初から全部見てきた、という人で、今回、それが途切れた、っていう人は、結構いたと思う(わたしもわたしも!)
それと、今書いてるこの話がつながるかっていうと、全然つながらないんだけども。
 
いい・悪いは別として、あのころの「わたしたち」は、ただの客になんかなれなかった。
嵐はとにかく要求が多くて、ちょっとでもぼんやり見てることをゆるさない。
やたら高度で早い英語のレスポンスを要求されるし、耳コピして口からその音を出さないと本人たちにムッとされるし、ちょっとの隙間も常にステージが声を出してくるから、それに応えるだけで2時間半なんか速攻ですぎていった。

まだ、カンペウチワというものが発明される前の、前近代的な、まだまだ全然のんびりした頃の話だ。
のんびりした頃に、アリーナの箱の中だけで、「わたしたち」は双方熱くなっていた。
前日のMステで1回やっただけの振付を瞬時に頭に入れて、翌日の初日に、誰にも何にも要求されなくてもその通りにやってみせる、本当に、今思い返しても、客席を埋めていたのはよく訓練されたスタッフたち以外の何者でもなかった。
 
そのスタッフたちが、少なく見積もっても6割くらいは同じメンバーで、全国津々浦々を一か月くらいかけて回る。
ツアーの間にステージは育ち、そして、客席も当然育つ。客席は本当に、びっくりするほど勝手に育っていった。
 
あの時、終わり方を4回変えてきたことを、「わたしたち」は今でも思い出して話題にする。
生真面目で、苦しくて、うっとおしくて、愛おしい、潤くんの「かける情熱」を、「わたしたち」は体に取り込んで、そして。
 
生真面目で、苦しくて、うっとおしくて、愛おしい、「かける情熱」を、なんとか返したい、返すどころか、どうにか、引っ張り上げたい。
 
多分、そんなふうに思っていた。
 
コンサートとは、ライブとは、ステージ上のみにあらず。
その箱の中にいるすべての人を含めて、それを指す。
 
ステージ上は試行錯誤し、客席も試行錯誤し、双方がはたらきかけて、引っ張りあうようにして育つ空気に敵うものなんか、何もない。
それさえあれば、それさえできれば、会場がどうだろうが構成がどうだろうが演出がどうだろうが衣装がどうだろうがビジュアルがどうだろうが、実は、そんなことは関係ないんだ。
 
(…うそです)
(…ちょっといいすぎました)
(ものすごく関係はありますw)
 
まぁ、でも、なんか。
双方、力技だったなって。
振り返って、改めて、思ったんすよ。
 
コンサートとは、ライブとは、客席が「育つ」ものだと、何の疑いもなく私の体に入っているのは、全部、潤くんのせいだ。
 
きみの、「かける情熱」が、全部、いけないんだ。
 
今回、いい・悪いは別として、システム上、どうやったってスタッフにはなれない客席を相手に、どんなアリーナをつくったんだろう。
よかったこと、そうでもなかったこと、次はこうしたいこと。
それはノスタルジーなんかではなく、きみの頭の中は、常に「次」でいっぱいだ。
それは、2年後の「次」かもしれないし、4年後の「次」かもしれないし、もっともっと後の「次」かもしれない。
 
その時、嵐が存在するかどうかもわからない。
 
でも、潤くんの頭の中には常にその先の「次」が存在する。
 
ノスタルジーを越えるきみの「かける情熱」を、未来をずっと、信じてる。
 
おんたじょうび、おめでとう!