KYO TO KYO から 紅白へ

1997年の秋、KYO TO KYOを見に京都まで行った20代前半の私は、「ガラガラだよ」と人から電話で聞いていた客席の状況を実際目の当たりにして、「ガラガラだな」と、思った。

当時バイト生活をしていた私は、土日ではなく、平日に京都へ行くことが多かった。土日はだいたい5公演、平日は3公演、が当時のKYO TO KYOの定番だったと思う。

京都へ行くのはKYO TO KYOを見るためでもあり、観光をするため、でもあったので、チケットは滞在期間中の最初と最後だけを持っていて、空いている時間には観光をするつもりだった。

でも、ガラガラだった。

うめてあげなきゃ、とか、そう思ったわけでもなかった。ただ、チケットは普通に窓口で売っていて、席は選びたい放題だった。

大野くんの立ち位置で見たい。通路側でゆっくり見たい。

「20番の席だとどこになりますか。中央の通路側の方で…」

そんなふうに窓口で聞いて、20番で空いている席のうち一番前の席を買う。そういう買い方が可能だった。

プレイガイドで事前に席を選べない状況で買うと、自動的に前方3列以内が手元に来た。それはそれでおとなしくそこで見て、あとは現地で好きな席を買う。97年秋の平日は、そんな状況だった。

その時、私はちょうど真ん中くらいの20番で見た。前3列以外はガラガラの客席で、ちょうどど真ん中に位置する席にぽつんと座っている人もいれば、中列くらいの妙にサイド側で見ている人もいた。みんな好きな席を買うから、前3列以外は、ぽつん、ぽつんと人が座っている状況になる。そういうなかで、20番は真ん中くらいまでは、縦に座席がうまっている、みたいな雰囲気だった。

うめてあげなきゃ、とか。そう思ったわけでもない。今の感覚ではないので、当時は、こんなもんだろ、とも思っていたような気がする。

ちなみに、翌年の状況は全然違って、客席はいっぱいになるようにはなった。だから、これなら続けられるな、と思っていたけれど、KYO TO KYOは、というかジャニーズ陣営は、2年でさっさと劇場から撤退した。

もう、次の春には公演がない、そんな噂になっていた年末、大野くんは、自分が出演するべきKYO TO KYO のステージが終わっても、東京に帰ってはこなかった。

KYO TO KYO の全部の公演が終わっても、ステージがなくても、大野くんは帰ってこなくて、ほかに東京から京都へ行っていたJr.のなかにも、帰ってこないひとがいた。

99年の1月には雑誌FRIDAYの一件があって当時未成年のJr.4人が解雇をくらい、くらった子が京都から帰ってこないJr.を頼ってそっちに行くとかいうもう、なんなんだよ💢、みたいな、さんざんな冬だった。

KYO TO KYO が終わった後、出演していた関ジュには細々と仕事があった時もあったけど、そのうちどんどん辞めていった。所詮は使い捨てだと言ってしまえば簡単だけど、当時私が押していた関ジュの子について最後に聞いた消息は、携帯ショップで接客のバイトしてるらしいよ、っていうやつだった。

KYO TO KYO 、という公演があってから、20年という月日を経過する2018年12月31日。

NHK紅白歌合戦に、純烈 というグループが初出場する。

純烈のなかに、当時関ジュでKYO TO KYO に出ていた、友井雄亮くんという子がいる。

…子、じゃないな。友井雄亮さん。

当時は牧山雄亮くん、マッキー、と呼ばれていて人気があった。

KYO TO KYO に、常時の出演者としてクレジットされていた東京Jr.のなかで、生き残ったのは大野くんだけだ。

そして、関ジュのなかで生き残ったエイトのヨコやヒナと、そして、事務所を辞めた牧山が同じステージに立つ、そんな20年後の未来。

なんとかなる未来も、きっとどっかにあるよ。