人を乗せ、時空を運ぶ
知らない何かに出会って、知らない何かのことを調べていると、ある程度のことを知識として知ることはできるんだけど、その時の空気感というか、人の感情の動きがどうだったかとか、そういうことはわからないもんなんだな、と思うことが結構ある。
後世(という言い方は大袈裟だけども)には、炎上した、という言い方でしか伝わらなかったりして、人の感情は100人いれば100通りあるわけなので、その時の全体の空気感を説明するのは難しく、結果的に炎上の一言で説明するしかない、という向きもあるんだろなという理解はする。SNS上の言葉をたくさん拾って集めて羅列していたとしても、それとはまた違う現場の空気感というのは並行して存在しいてるわけで、そこを後世に(大袈裟だけども)残すというのは、たとえ映像が残っていたとしても難しいし、逆に今の自分が後世に存在する立ち位置だったとした時に、残っているものからおいそれと断定的に何かを判断してもよろしくないのだな、ということも考える。
結局、というか究極、記憶というのは一人のヒトの中で生成されるものであり一人のヒトの中で残されていくものなのであって、なかなかそれを全体の記憶として、空気感とともにパッケージとして留め置く、というのは至難の業だなぁという感慨のようなものがある。一人の記憶は一人の記憶でしかなく、一人の感情も一人のものでしかなく、こうだったよね、と言ったところで、自分ではないヒトは、そうかなぁ、と思ってもらいたいし疑ってほしいよね、と思っている今現在時点の私が書くことなのですべて疑ってかかってください(前置き)(長い)。
100回書いた気がするんですけどムービングステージの話します(唐突)。
初めて見たのは大阪城ホールでした。2005年7月26日、ONE、のツアー初日。自分が過去に書いたものをひっくり返すと、2005年7月30日にセットリストをまとめてる中で触れている。
中央ステージ、左右に花道、左右の終点にリフター1基ずつ。正面ステージはアクリル素材、まっすぐタテに客席をつっきって可動式=アリーナ席一番後ろPAの真上で停止するとバックステージに変身する優れもの。考えた人たぶん天才。
サクラ咲ケ、可動アクリルステージ出動。動いてるのを初めて見た時はカンドーした。今もカンドーする。考えた人マジ天才。ステージの真下は結構見えます(笑)思ったよりすごく近い。近いというか、アクリルが案外頭上ギリギリを通過している感じ。
この時点では「考えた人」がわかってなかったんだな、と今初めて知ったwそうだったのか2005年の自分ありがとう、この後のどっかでじゅーんが発案ということを知るんだな。
この時は、スケルトン、という言葉が一般的で、現場で流通していた表現としては「スケステ」でした。いや本人たちがそうは言ってないけど、こっちサイドの話では「スケステ」という表現を使っていたという話。ただ、スケステっていう表現もオタク内の話なので、ホームページに出す時に、ぶんさんとしては「アクリル」という表現になってるわけなんすけど。
最初はそれが可動式とはわからず、正面ステージにぴったりとはめこまれていたそれが動き出したサクラ咲ケ、そんなに前半の曲じゃない。
Yes?No?→言葉よりも大切なもの→ハダシの未来→Lai-Lai-Lai→挨拶→いつかのSummer(相葉ソロ)→秘密(二宮ソロ)→Rain(大野ソロ)→Easy Crazy Break Down~時代
この次にサクラ咲ケ。次が、EYES WITH DELIGHT→Hey Hey Lovin'You→ROMANCE→MC、という流れ。
スケステさ、100回書くんだけどさ。
浮いた、と思ったんだよね、最初。
スケステって、トロッコの派生ではないんすよ。トロッコは浮かないから。なんか、ある意味頭上を通ることは見慣れてきているから、今は、大きいステージが後ろの客席の近くに来る、ということの意味合いの方が強くなってる気配もあるんだけど、なんというか、あれは、大袈裟なんだけど、時空を運ぶ、ものだと思ったんです。
人を乗せて、浮いて、時空を運ぶ。
ジャニーズのコンサートは外周があったりトロッコを駆使したりクレーンを高く高く伸ばしたりして、観客の近くに行こうとする努力、を常に常に続けていたわけなんすよね。ただ、近くに行こうという「移動」の間、踊る、ことはできなかった。メインステージからバックステージへ移動しようとする時には、トロッコを使うか、外周を通るか、ステージの下を台車で走り抜けるか、っていうなかで、移動するのに不自然でない曲をチョイスしたセットリストが組まれてきたわけです。
スケステが画期的だったのは、その、移動するための時間ごとステージに乗せて、文字通り、運ぶ、ことができたことだと思うんです。
スケステを嵐が使う時は、基本、ステージ上の時間をそのまま運んでる。ダンスナンバーも、複雑なフォーメーションも、まるごとスケステにのっけて、移動のための時間と、ステージという空間をそのまま、時空を一緒に運べるっていうことが、とにかく圧倒的に画期的だと思ったんです。
城ホールで、スタンドから双眼鏡で見てたんすよね。双眼鏡で顔見てた。そしたら、ふっと顔が見えなくなって、胴体と足が見えた。
なんだ? と思って双眼鏡はずしたら、浮いてた。
浮いた…?
って思った。
当時のスケステは動作がゆっくりだったから、浮いた…? って考える時間があったw
浮いた…? ってなってたら、ズズッ…って、そのステージが前に出てき始めて、「行けぇー!」みたいなことをじゅーんが叫んだ記憶があるけど、これは後から私の脳内で合成された可能性のある記憶…。
スケステが前に動き始めてから、隣で双眼鏡除いてた友達の肩をバシバシ叩いた記憶はある。そんで翌日の公演前に、その日初見の友達に、ステージが観客の頭上を通って前に出てくるという話を一生懸命して、「?」って顔しかされなかったことも記憶はある。
当時のわたしたち(これは「当時のわたしたち」が主語でいいと思う)は、一回はあのスケステの下に入ってみたくてしょうがなかった。
後々で、あのスケステは誰も見たことがないものだったから説明しても会場側の許可が下りず、とにかく現物見てもらうしかないっつってとりあえず運び込んで組み立てて、まさにちょうど見てもらってる時に結構大きめの地震があって、それでビクともしなかったから結果的にそれが証明みたいになって、ほら大丈夫じゃないですか、ってスケステの上でぴょんぴょん飛んでみせた、…っていうじゅーんの記事を読んだ記憶が強烈にあるんだけど、果たしてこれは雑誌とかの記事だったのか、それともラジオとかで言っていたのか、そのあたりの記憶がまったくない。さすがにこれ全部、私の脳内で創り出しただけの記憶ではないとは思うw
これが、2005年の夏。
ドラマ『花より男子』の主題歌になった「WISH」が発売されたのが2005年11月。
3週目の修二と彰にウィークリーの売り上げで負けそうになって(3週目だぜ!当時どんだけ勢いがあったかを感じてたもれ)、急遽幕張で必死握手会を開いて、Jストのスタッフが声をからしてCDを売っていて、じゅーんが途中で握手会抜けてドラマ撮影行ったり、必死必死でどうにかウィークリー1位になった、「WISH」。
当時ニノが、嵐は事務所内順位が8番目だと言っていて、8番目、ってそれはオタクが思う嵐の扱いとも合致しているくらいの順番で、まぁそうだよね! ってなったし、当時は嵐は逆立ちしても事務所王道路線ではなくて、独自サブカル路線でなんとか生き残る道を模索している時期もあり、私などはジャニーズ王道路線のミュージカルとかすごいやってほしかったから、でもさすがに3年目くらいにはもう、嵐ってそういう路線じゃないということにぶち当たったし、Jスト立ち上げてもらってからはマジJストの子で、事務所本社とすげー距離できてしまった気配があるのが寂しかったし、でもそんな贅沢は言ってられない状況で、なんとか、こう、なんとか、なんとか生き残る道はないんか! コンサートは本当におもしろいんだこのひとたちは! って、そう思っていたのがちょうど2005年の頃なのが、一人のヒトとしての私個人の記憶なんです。
そして、20年近くがたって。
模索している、という状況は端からみるとつらい感じもするけれど、でも2005年は今振り返れば嵐にとってターニングポイントになった年でもあり。何がどう作用するかなんて、本当に、本当にわからないわけで。
ツアー「ONE」の終わり。
最後のアンコールの前。松本くんのご挨拶。このツアーを振り返って。言葉を選びながら、ゆっくり、ゆっくり。アルバム出ないうちにツアーが始まることをものすごく懸念していたんだな、とか。これからもよかったって言ってもらえるステージをつくりたいって、すごく真面目にそーいうことを言う。
この夏は横アリじゃなかった。初日の城ホールも、ど平日だった。さらに、アルバムの発売の前にツアー初日がやってくる(けど使用曲はアルバムメイン)という、さすが事務所内順位8番目だな! という、多分、底、の時期だった。
でも「わたしたち」はとても楽しく夏のツアーをまわっていたし、そんな時期に今に輝くムビステが颯爽と登場していたわけなんですよ。
私は、わりと真面目に、じゅーんには、いつか空を飛んでほしいと思っている。
フリフラもそうなんだけど、ステージの上だけじゃない、それ以外も全部を含めた「空間」を満たす、ということにかける情熱の話として、いつか潤くんにはワイヤーを使わずに空を飛んでほしいと思っている。そして、ワイヤーも何も使わずに、空中にステージをつくって、そこでパフォーマンスをする技術ができないかと、それができるなら松本潤だと、わりと真面目に思っている。
これからもよかったって言ってもらえるステージを
「ONE」から約20年。
変わらぬ祝福を、君の未来に。
Congratulations!
潤と七 卒業写真ー2002年2月16日ver.
潤と七について最初に書いたやつ。
2002年2月16日の日付で当時やっていた個人サイト(個人サイト)に出していたやつです(無駄に長かったので、七に直接関係ない話してるとこは端折った)。堀越の卒業式でふたり並んでの囲み取材の記事が出たから、よし言っていいんだと思って一気に書いた、んだと思う。
オチとしては、潤と七の本人たちは卒業式まで互いに友達ですって大っぴらに名前を出すことはなかったけれど、父上は、息子の友達が嵐の松本潤くんで、って堀越在学中にテレビでしゃべっていたという…それ自分は後々知ったんだけど、父上のインタビューとかを先に調べていればあっさりわかったんじゃないかっていう…。
あと、以下で言う「夏」のツアーは、嵐になって2度目のコンサート、夏にアリーナサイズでやってたツアーがわりとかなり評判が悪くw、しかしチケットはわりと取りにくく、という状況で、この時のコンサートの出来に誰よりじゅーん自身が納得いってない感じがあふれ出ていたので、その話をずっと延々としています(私が)。あの、箱に入った幼稚園児のアレルギーがあった時。膝の異変が客席からでも初めてわかったのがこの時で、以下で「調子が悪い」と書いているのはこのことを含んでる。確か会報にこの時のオーラスの後で撮った楽屋前の集合写真が載ってるんだけど、一番前で足投げ出して写ってるはず(膝曲げられなかったから)。
いや評判が悪かっただけでw、情熱はあったんだ。それはずっと変わらずに。
以上前置きおわり。
*********************************
卒業写真(2002年2月16日up)
「そんな出来すぎた話はないだろう?」と、実はずっと思っていた。
個人的に「どうも松本のゆってる学校の親友というのはかの中村七之助らしい疑惑」が重要問題として浮上してきたのは、チケットがおそろしく取れなくて右往左往を余儀なくされた夏のツアーの頃だった。
「学校の友達」「すげぇ仲良い」「俺含めて3人」「1人は役者やってて1人は歌舞伎やってる」そういう話はそれまで松本がいっぱいいっぱいあちこちでゆっていたことだ。それがなんでその夏にいきなり重要問題で浮上してきたかとゆーと、その夏の松本くんはとにかく調子が悪く、普通だったらそんな調子の悪さ程度でどうこうなってしまう人じゃないはずなのに、その調子の悪さがこちらにも透けて見えてしまう、という異常事態のせいであった。いや、その事態そのものではなく、そんな調子が悪い(悪く見える)松本潤が、名古屋~福岡とツアー転戦してった直後、非常に疲労困憊なはずの時期に「歌舞伎を初めて見に行った」と発言したからである。出典は嵐音と、確かテレキッズのタイフーン日記(嵐各自のリレー日記企画)。歌舞伎を見に行って、けど疲れてたし意味わかんないし(笑)客席で爆睡してて、その後「知ってる人がいるから」楽屋にも行ったんだけどそこで「すごく上の方の人」に声かけられて、寝てるとこ見られたと思って動揺して(笑)その後すぐ帰った、と。
歌舞伎を見に行った、と言った。そんな疲労困憊の時に。調子激悪のように見えたその時に。
そこで初めて私の中で「1人は歌舞伎やってる」が意味を持った。歌舞伎初めて見に行くなら、なにもその時期じゃなくてもいいだろう。なんでそんな時に行ったんだ。その理由は「1人は歌舞伎やってる」人に会いに行ったとしか思えない。
わざわざ堀越に行くほどちゃんと歌舞伎やってる子で、松本と同じ歳の子、なんてそんなに数がいるわけがない。知人の歌舞伎ファンの子に松本の生年月日を伝えて同じ歳の子をまず調べてもらったところ、ピックアップされた子は2名。松本が「初めて歌舞伎を見に」行って、楽屋に挨拶に行ったらしい旨をその子に伝えると「あぁ、じゃぁ七之助くんじゃないですか」とあっさり言われた。その月に歌舞伎座でやっていた演目は中村一門が主な出演者だったので、中村一門ではない同じ歳のもう1人の子が松本を連れて楽屋に挨拶に行く可能性は少ないと言う。「でも七之助くんって堀越だったかなぁ?中学から続けて高校行ってないのかなぁ」とも言った。私は裏付けを求めてあちこち調べてまわり、友人知人にもこの話をして七之助が堀越であるという裏付けを探してもらっていたらあっさり「マニッシュだったかWinkupだったかでゆってた」という証言が出てきた。なんでも、編集後記みたいなページのところで、スタジオで偶然七之助と松本が会って、松本の方が「どうしてここにいるの?」的に話しかけ、「いや、学校一緒なんですよ」とスタッフに説明したという話が載っていたという。私の方は読んだ記憶がうっすらあるようなないような、といったところだったがともかくこれで話は決まった。
松本の言う親友とは、かの中村七之助のことである。でもちょっと待て。そんな出来すぎな話があっていいのか?学校の友達、「最初俺より浮いてた」って言ってたよなどっかで。七之助ってそうなのか?
私がそれからしたことは『中村七之助をめぐる旅』である。恥ずかしながらその過程で初めて『中村七之助』が彼の本名ではないことを知った。幸いにというかなんというか、彼は文字通り生まれた時から有名人だったので資料には事欠かなかった。県立図書館の雑誌閲覧室に半日こもったり、歌舞伎のサイトめぐりをしたり、書店の歌舞伎コーナーをめぐったり、やることはいっぱいあった。歌舞伎ファンの知人も、友の会的なところで配布される会報を持ってきてくれたり出まわっている「ファンの間の通説」を教えてくれたり、私の「市川っていう系統はひとつではないの?」とかいう初歩的な質問に答えてくれたり、なんかもー振り返ると本当に色々してくれて今更ながら感謝カンゲキ雨嵐である(マジでな。)
そして私は最終的に、歌舞伎座まで中村七之助を見に行った。元々いつか行こうと思っていた歌舞伎だし、いいきっかけが出来たと思った。
ナマで見た舞台の上の七之助は、なんというか、「硬質」な人だった。そして、私の方の先入観を差し引いて考えたとしても、どことなく松本潤に姿形が似ていた。なによりも、持っている空気が似ていた。硬質なんだな、とにかく。凛とした、硬質な空気の中に立っているような感じだった。似てるなぁぁぁぁぁ、とつくづく思った。松本潤と中村七之助が御学友であるばかりではなくどうも親友らしい、とは出来すぎな話だと思っていた。本当、出来すぎな話だ。でも、きっとそれは現実の話なんだな、と、その時初めて納得できたような気がする。
似てないからよかった、というようなことを卒業式の記者会見で言っていたらしい。中身のことまではわからんけど、でも、少なくとも空気は似てる。似てるぞ!あんな硬質なものを持ってる人はなかなかいないと思うぞ!
学校でできた友達について、最初「俺より浮いてた」と松本は言った。「多分学校辞めるんだろうなと思っていた」と七之助は言った。「途中から仲良くなって、その時はほんと2人で遊んでましたね」とも七之助は言った。最初浮いてたのは七之助の方だったかもしれないが、その後「辞めるんだろうな」と思われるまでに学校に馴染んでなかったんであろう松本よりも七之助の方が学校に慣れるのが早かったんじゃないかと思われる。人当たりの面では、本当に小さい頃から大勢人のいるところで生きてきた七之助の方が松本よりはよっぽどいいんじゃないかなと思う。いい、というか、人当りが「上手」なんじゃないかなーと思っている。そういう七之助を介在してできた友達がいっぱいいるはずだ。だってそうじゃなければ、高校に入るまでとんと友達の話なんかしたことなかった松本が友達友達と話始めるはずがないのだ。
松本にとってえらいこっちゃだったあの夏、どう考えたって疲労困憊な中、劇場まで足を運んだのはそこに七之助がいたからだ。そういうぼろぼろな状態の中でも、会える人がいるということだ。それを思うともう、七之助には卒業祝で家一軒贈ったくらいでは追いつかない。ハワイあたりを半分プレゼントしたい気分である。
私は松本潤が好きなので、松本潤の隣りにいる中村七之助は好きである。そして、多分単体でもこの人のことは好きである。お兄ちゃんと一緒にクイズ番組に出たりすると、口では違う答えを言いながらも最終的にお兄ちゃんの回答を優先させるところあたり、そして大抵そのお兄ちゃんの回答の方が正解なところあたり本当に大好きである。
しかし、日々中村七之助をめぐる旅に精を出していたころは、まさか卒業式に二人並んで記者会見をするとは思ってなかった。今迄、暗黙の了解事項だったとはいえ、お互いにその「学校の友達」が松本潤であり、中村七之助であることをずばり言ったことはなかったから、これで雑誌だのなんだのでも解禁になるのかなと思う。対談くらいだったらどっかでできるかもしれないし。
お互い本当に有名になったら共演しよう、と。そんなことも会見でゆっていたらしい。
KTKじゃないけど、実はちょっと嵐で歌舞伎…というか日本物チックなね、そんなショーもできねーかなと野望的に思っていたりもするので。それが実現した折には(するのかよ)、七之助様始め中村一門の皆様に手を貸して頂きたいと思っている次第である。松本と七之助でそのテのショーをやるとか言いやがったら家財道具処分してでも行くから待ってろよ、ってな感じである。
*********************************
2002年のこの時に書いたショーと中村一門は、2015年の嵐のツアー、 Japonismで定式幕の使用許可をもらうことで結実するんですよ。するのかよ、って突っ込んでる場合ではなかった2002年の私。家財道具処分しなくても見に行けましたJaponism.
そんでもって2023年6月現在、松本潤は大河の主演を任されてしまって徳川家康を演っており、石田三成役で七の出演が発表になりました。
これが初共演になるんですってよちょっと。
2002年は2023年ではないので、当然2023年の私は2002年の私ではないのですが、たしかにこの日を願っていたことには違いなく。同い年の子たちはみんな子どもに見える、もっと仕事したいから高校行きたくない、そんなふうに駄々をこねていたじゅーんが実際高校で出会って、ヒトとしてヒトと友達の関係性を結べるようになったのは七がいたからに違いなく。七は七で当初じゅーんも引くほどに周囲になじんでおらず、父上はいつ次男が高校を辞めてしまうかと気を揉んでいたところに突如として現れた救世主には違いなく。
そこからずっと道が続いてきたこと、父上を喪ったその時にも支え合える存在であったこと、それを垣間見せてもらえたこと、堀越に行ったその理由である仕事を、今でもふたり初志貫徹して邁進し、結果として家康と三成として画面の中で出会うこと。
2023年の私は2002年の私ではないけれど、しにそうになりながらあの夏のツアーをまわっていた2002年の私、よかったね!