ロマンを食べる。

じゅーんと旅をしていた東大史料編纂所のH先生が若かりし頃、まだ他の大学の講師なんかをやっておられた時分に、たまたま私の通っていた学校でも講師として1コマ担当されており、その授業を1年間受けたことがある。ざっと30年前の話だ。30年前はインターネットなど身近なものではまったくなく、学生は携帯電話など持ってもおらず、ポケベル保持者が2割程度だったと記憶している。

当時、東大といえば養老孟司先生が大ブームの頃で、私の通っていた学校でも養老先生の講演が開催されたりしていた。たとえばタクシーの後部座席に脚だけがあった場合、それはヒトなのか、死体なのか、というような導入の講演内容で、養老先生の研究室の方等が書かれた死体の書籍などもとても売れていた。

私が当時受けていたH先生の授業は、受講生が歴史専攻か哲学専攻の女の子が10人ちょっとの小規模なもので、いたくのんびりとしていた。H先生も若手の駆け出しの頃で、なかなか認められないというようなもどかしい状況も多かったらしく、よく受講生である我々に対して悶々とした愚痴を述べられており、我々はそれをなんとなく頷きながら聞いていた。

時はバブルがはじける直前の頃。

その段階でH先生は編纂所の上司にあたる方とご結婚されており、当時はまだそういう例は極端に少なかったので、女性の方が職場の立場として上位にある結婚ということでもさまざまな思いがあるらしく、それはそれはいろいろなことをお話なさっていた。ただ、私の通っていた学校は女子大であり、その当時としてはめずらしく講師の旧姓使用をOKにしていたりもして、女の子のエンパワメント、ということは重要課題であり、その趣旨にH先生が逆に励まされるというようなニュアンスのこともお話していたやに記憶している。

思えば、主人や嫁はおろか、妻や夫、というような言い方も皆あまりせず、一様に「つれあい」「おつれあい」という表現を使っていたので、何かしら学内での申し合わせのようなものもあったのかもしれない。敗戦も学生運動もリアルタイムでぶつかった、という世代の教授陣の定年が視野に入る、そんな時代の空気もあっただろうと思う。

H先生も当時、ぼくのつれあいは、という言い方で、一緒にオペラに行ったがオペラのチケットはとても高額である、というようなお話などもされており、我々はそれを神妙にうなずきながら聞いていた。たくさん愚痴を聞いた後、「H先生、いつか有名になれるといいねぇ…」などと学生同士で話していたのだが、果たして現在こうなっているわけなので、良かったねぇ、と思う次第ではある。

そのH先生、ある時、史料編纂所から新田義貞の書状を持ってきた。

時は養老研究室、死体がブームといってもいい状況下で、新田義貞の書状を持ってきて、そして授業の冒頭に、死体にはロマンがあるのか、とぶち上げた。我々は、「……?」となりながらおとなしく聞いていた。

バブルがはじける直前、よく売れている本は死体(解剖学)の本、世の中はひたひたと、実学だけが尊重され、文学や史料などは役に立たぬという土壌ができつつあった。H先生はそれをとても憂いて、よく我々に愚痴っていた。

義貞の書状はわりとどうでもいいというか、よくあるというか、戦で武功をあげた誰々にこの褒美をやる、というような単純なものだった。H先生は、その書状の日付を見よ、と言う。

ここから先、義貞は転落していく。その流れを今の我々は知っているが、この時点での義貞はそれを知る由もない。そのあと、の前途洋洋さを信じてこの書状に花押(かおう・本人のサイン)を記したのではなかったか。しかしそうはならなかった。

この花押は、(後からみれば)義貞がその人生の絶頂期に記したもので、しかし、当人はそれを知る由もないのである。その先が前途洋洋だと信じていたかもしれないこの時、この瞬間、義貞は、どんな思いで花押を記したのか。

これは、ロマンである。

こんな、よくありがちと思われる史料ひとつにもロマンはあるのだ。そして。

死体にはロマンがあるのか、と。

それは今思えば、実学に押される文系の部署である史料編纂所の当時の肩身の狭さみたいなものだろうと思う。そして、やはり肩身が狭く、卒業時には実際バブルがはじけ飛んでおり、文系女子など見向きもしない企業群に対し、すさまじく邪険に扱われる我々、という未来が待ち構えていたわけだけれども、当然その時点の我々にもそれを想像する余地はない。

もし今、我々が書状に花押を記したら、それはどういう流れの中でどういう意味を未来で持つのだろう。

H先生妙にはりきってたな、という印象が残ったこの授業の少し後。

宗教学の死生観のゼミで、H先生の授業を受けていた哲学専攻の友達が、

死体にはロマンがある。

と題した発表を持ってきた。

死体にはロマンがあるのか。

縄文以前の時代にも、死体は埋葬され、花が手向けられていた証拠に花粉の跡が見て取れる。そんな発見が報道されている頃だった。

その、発見された花粉の跡こそが、ロマンではないか。

これは、死体にはロマンがある、と言えるのではないか。

……そもそも、ロマン、てなんやねん。

時はバブルのはじける直前、我々はまだ牧歌的だった。その死生観のゼミでは、学生のシスターに対し、死んだら土葬になるが家族と墓の話はどうしているのか、などつっこんだことを聞き、死んだらわからないんだから火葬にしたいと家族が言うならそれもありなのではないか、などと、世が世なら不敬罪でしょっぴかれそうなことを、ああでもないこうでもないと(わりと真剣に)角突き合わせていた。

そんなことで真剣に角突き合わせてしまう我々は、霞を食べて生きていたし、霞を食べることで生きていた。そして女の子なのに(当時はまだそういう世相ではあった)短大でなく4年制大学に来てしまった、来れてしまった我々は、それぞれ程度の差こそあれ(たとえ借りられるだけの奨学金をすべて借りまくっていようと、週7でバイトをしていようとも)環境として恵まれていることには違いなく、ゆめゆめ今の状況が自分の努力の成果だなどと思ってはならず、と、それだけは叩き込まれ、たまたま環境が良かっただけで、ただそれだけであなたの足は数多の人を踏みつけている、ゆめゆめそれを忘れるでないぞと言われながらバブルのはじけた後の世の中に放り出され、そして。

H先生は有名になり、もうあまり愚痴などは言わなくなったのだろうか。

インターネットなど周囲にはないに等しかった当時、古文書はそのものを持ち出すか、写真に撮ったものを印刷するか、ある程度まとまったものならマイクロフィルムにまとめられ図書館にある機械でそれを見ることができた。卒論に関係のありそうな時期と人の書状類があれば暗い図書館の地下で1通ずつ内容を確認していたが、およそ歴史的に何かしらの意味を持つようなものは素人目には当然ながら見つけられず、今おもてに出ている歴史とは、史実とは、川の中に眠る砂金を見つけるようなものであって、その川そのものの生活というのは砂金とはまた違う文脈で流れているのだなと思った。

汚職事件を担当しているはずの判事の書状は、ありとあらゆる人への礼状だらけだった。先日いただいたものはおいしかった、あのことはうれしかったありがとう、このあいだおしえていただいた薬はよく効いた、などなど。延々と続く礼状の宛先はその判事の生活の周囲にいた人へのものであり、その時私が書こうとしていた汚職事件そのものとはまったく関係がない。歴史、というものに現在「残っている」のはその汚職事件なのではあるが、担当判事の生活は生活として流れているわけであり、時間の多くを占めるのはその生活の方であることは勿論だ。

ロマン、とは。

その流れそのもののことなのではないか。

その流れそのものが今ここに通じていることなのではないか。

霞を食べては生きられないが、霞を食べて生きている今に通じる流れのことを。

ロマン、とは。