釜石と宮古に行きました

仕事の関係で、釜石と宮古の田老地区に行ってきました。

3日間だけで、私が見た範囲も限られるので、一概には言えないし、あくまで私が見た範囲で、ということでなら、とても、落ち着いてみえました。

もちろん瓦礫はたくさんだし、枠組だけ残っている建物には「○月○日カイタイ可」等、今後のことが大きく書き込まれていたり、広大な面積と比較して瓦礫処理に入っている重機が足りなすぎるように思えたり、衝立のない避難所もあったし、商店の前に水をかぶった商品が瓦礫と一緒に山積みになっていたり、等々々、いろいろ、いろいろあるんだと思うのですが。

人は、落ち着いているようにみえました。そうしないとやってらんない面もあるだろうし、今はまだ気を張っているというところもあるのだと思うのですが。

瓦礫の風景を除けば、そこには日常がありました。それは、避難所の中であっても。とてもとても、不自由であることには違いないのですが。日常と言ってしまっていいのか、わからないのですが。それでも、そこには。

「これからが大変だ、これからが大変だ、ってずーっと言われてるけど、何が大変かわからない」って言ってました。その方は職場が流されて無くなって、別の場所で再建の準備をされていたんだけど。これからが大変だ、って言われても、やったことないからわからない。目の前のことに対応していくしかないし、それは今までもやってきたことだし…、何が大変になるんでしょうねえ、うーん、わかんないですねえ、と。

自分の職場が避難所になって、自動的に運営に携わることになった方は「とにかく最初の1週間は寝る時間がなかった」と。でも、その1週間に必要なものはなんだったかと聞くと「お水はいるんですけど…ポカリスエットもいるんですけど…食料と…うーん、でも、みんなで知恵を出して、ひとつずつ切り抜けることはできたので…うーん、お水と…お薬、かなあ…」と。

これは別の避難所の話ですが、当日の夜、そこに人がたくさん集まっていると知った水産会社が、冷凍の食品をあちこちに運んできてくれた、ということもあったそうです。停電なので、冷蔵庫が使えないから、と、自動的に解凍されてしまった食べ物をトラックに積んで運んできてくれた、と。たまたまその時のダンボールが出てきて、「なつかしい!地震の後、初めて口に入れたものがこれです。解凍されたイカそうめんと、さんまのみりん干しの缶詰。ファーストフードだって言いながらみんなで食べました」と、笑っておられました。

田老地区は、防潮堤が役に立たなかったと報道されてしまった場所ですが、地域の数名の方に話を聞くと「そんなことないんですよー」と口を揃えておられました。防潮堤は昔からあるものと、新しく作られた部分とあって、確かに部分的には壊れているんだけど、壊れてないところもあって。防潮堤のおかげで津波の到達時間が遅くなるし、威力も弱まる。役に立たなかったわけじゃないから、そんなふうに言わないでほしい、と。

大きい地震の時はあの一本杉みたいな木んとこまで走れって言われた、と指されたそこには、確かにはっきりわかる一本だけ立つ木があって、そこまでは水はいってないようでした。あの木をめざして走って逃げろとずっと言われてきた、と地元の方が言う、そこまでは確かに水はいってない。

私は千葉で育っているので、防災訓練といえば、9月1日です。関東大震災のあった日。

このあたりの地域では、昭和三陸地震のあった、3月3日にやるのだそうです。「その年によって、訓練する時間が違うんですよ。朝5時からやったり。その時は朝3時に、訓練やるよーってサイレンが鳴って、そんで5時から避難するんです」と聞きました。

地域ごとに、いろんな教えというか、伝承というか、まぁ、言い伝え、なんだけど…ぴったりくる言葉がなかったなぁ。それより強い、地域の何か。そういうものが、あるんだなぁ、と。

盛岡までは、車で飛ばして8時間くらいかな。飛行機は臨時便も出ています。釜石まではもう電車も走り始めたようでした。瓦礫が道端によせられた町の中を、学校のジャージを来て、携帯をいじりながら、ごく普通に歩いていた女子高生が妙に印象に残っています。不安定な非日常の中に、確かにある日常。

たぶん、ひとは、つよいのだとおもいます。

そのつよさが、よくない方向に出ることもあるけれど。

それでも、つよく、やさしく、生きることはできるのだとおもいます。

それは無意識にでも。

どんなに不安定な状況下でも、ひとは、ひとつずつ、切り抜けることは、できる。

そういうことだと信じていいと、そう思いながら、帰ってきました。