巻き込まれ型の美学 -反転するDREAM BOYS

※以下は全部語尾に「知らんけど」をつけて読んでいただけるとサイワイ。

帝劇は全部優馬にあげていい。

実際、そう思った。ただし、その時の演目は、DREAMBOYSではない方がいい。もしくは、かなり優馬に寄せて書き換えた方がいい。なぜならば、優馬は決して「巻き込まれない」からだ。

DREAM BOYSは、いわゆるトンチキジャニ舞台である。かめたんがかなりがんばって話を整理したが、何度整理しても迷宮に迷い込む感じのジャニ舞台であることには違いない。

今年は、かなり整理されている。後期のかめたんのに近い。最大にトンチキだった弟の出自を最初から明かした上で、チャンプも主人公もユウキに近い位置にいるのだということがきちんと表明されている。

しかしやっぱり、無理がある。そこをつなぐのは、主人公が「巻き込まれている」という点にあるのではないかという話。ユウタは思い切り巻き込まれ型だ。自分で選び取っているわけではない。ただ、弟と静かに暮らしたい。そこへ災難がいくつもいくつも降ってくる。

ユウタの場合は、最後まで引き受けてやろうじゃねぇか!よりも、マダムとリカさんのところがより響く。「俺の前から消えてくれよ!」というのは、巻き込まれた子どもの立場からの叫びだし、ほっといてくれ、というのもある種の反抗に近い。それでも、子どもが愛情とつながりを求めるから、「母さん」の一言が響く。

ユウマの場合は、スタンスが「父親」に近い。マダムとリカさんのところの叫びは、どちらかといえば、説教に近い。俺はユウキとちゃんとやってんだ、おまえら何やってんだ、という叫び。

それは実際のユウタとユウマがたどってきた道がバックグラウンドにはあるわけで、ユウマが一番帝劇で光るのは、ゆうまわるの装置の上にいる時だ。いろんな悲哀を抑え込み、ひとりでいることを選んだ優馬の道は、巻き込まれてきたわけじゃない。

むしろ、ユウマのDREAMBOYSで巻き込まれているのは、チャンプの方だ。チャンプの方が、運命に巻き込まれている。そこに抗おうとして抗えない。「悔いなんかねぇよ!」という叫びは、巻き込まれた子どもの立場からの叫びに近い。

過去、自分が見た限りのDREAMBOYSは、主人公が状況に巻き込まれ、チャンプが動じずに構えていた。今回のたまボは多分それに近い。チャンプが感情を出すようになっているという変化はあるけれど、基本ラインはそれだと思う。チャンプが心臓を差し出す時に現れる主人公の逡巡。ユウタが心臓をなかなか受け取らないこと、「ありがとう」と言う時に現れる心の揺れ。

しかし、ゆまボは、主人公が動じず、チャンプが運命に巻き込まれている。半分泣きそうになりながら、しかし迷いなく心臓を差し出すチャンプに対し、ユウマの「ありがとう」に揺れや葛藤はない。ユウキを助けねばならない以上、チャンプにはこの道しか残されていないことを、むしろユウマが理解している。このひと、ローマ皇帝なのかな?アウグスティヌスなのかな?くらいの勢いがある。

「悔いなんかねぇよ!」っていうチャンプの、おまえ悔いしかねぇじゃねーか!!っていう叫びは、むしろ巻き込まれる主人公の「何もかも引き受けてやろうじゃねぇか!」に近い。

ゆまボは、巻き込まれる主人公と動じないチャンプがちょうど反転して、動じない主人公と巻き込まれるチャンプの物語になっている。だから、ふうまのチャンプは異常にエモい。

状況と運命に巻き込まれて抜け出せない場所から、ほっといてくれと叫ぶ主人公ユウタと、悔いなんかねぇよと叫ぶチャンプふうまが、2つのDREAMBOYSを根底でつないでいる。DREAMBOYSは多分、巻き込まれ型の美学を愛しているからだ。