老後のわたくしのためにポエムっておくトーマの心臓2016。
慎ちゃんがめっっっちゃ良かった、っていう私的ポエム。
松本慎也(まつもとしんや)、というお名前です。(この写真は2016ではない)(が、しぬほど気に入ってるのでこれを使ってしまう)。
はい、あの、男の子(男の子!)だけで萩尾望都先生の漫画の舞台化とかしているイロモノ系に分類される劇団の。その実すっごい体育会で、高校演劇みたいだなーって思う、いつ見ても初心にかえる感じの。
劇団はオーディションした時のくくりで役者のカタマリを呼ぶのですが、慎ちゃん(と呼んでいる)は Jr.7(ジュニアセブン)(オーディションし始めて7回目の時に入った)(ジュニア、ってつくんだよ頭に…)になります。中堅、だなー。
顔と名前が一致した時は新人でした。顔がとにかくカワイイ!どストライク!と思って、まだ物販とか全然並ぶ人もいなかった新人の頃(巨大な劇団ではないので終演後に役者が物販に立ったりする)、1,600円のポーチを買うのにわざと1万円札を出して、おつり一生懸命数えてもらったりしました、その節はすみませんでした…。
スタジオライフは、トーマの心臓を舞台化してから今年で20年になるのだそうです。
まだ、2.5次元、なんて表現も存在しなかった頃。
慎ちゃんが初めてエーリクを演った時が、私の、トーマの心臓の、初めて、でした。
及ちゃんじゃない!って、すっごい色々言われてた。オスカーも笠原さんじゃなかったし。キャストをすごく入れ替えた時のことで。
でも、その時から私のエーリクは慎ちゃんで、慎ちゃんのベストオブ、は、いつもいつもエーリク。
慎ちゃんはわりとアンドロイドで、表情もパターンが決まってるし、物販とかで話しかけられた時の返しもパターン化してるし、舞台上での挨拶もそう。
でも、いつだったか、昔、舞台の千秋楽の挨拶で、ものっすごい早口で、若干関西のイントネーションで(愛媛県出身)、自分は舞台の上でないと人とつながっている気がしない、というようなことを口走ったことがあって。
それは、口走った、という言い方がぴったりなくらい、ど、どうしたの!?っていうような出来事だったんだけど、それが、すごい印象に残ってて。
そういう意味で、エーリクの時が、一番、慎ちゃんが、生きてる、って気がするの。
2014年、慎ちゃんにまわってきた役は、ユーリ。
東京公演の初日、慎ちゃんのユーリは、完全に芳樹さんのユーリをなぞってた。とても丁寧に、精密に。でも、なぞってた。それは几帳面なほどに、神経質なほどに、芳樹ユーリを丁寧になぞってた。
慎ちゃんのユーリの東京最終日、スタンディングにならなかったの、多分、ちょっと気にしてたと思う。
心配のあまり、直前に行こうって決めて大阪に行ったら、大阪では全然違ってた。芳樹さんのユーリをなぞるんじゃなくて、もっと直情的な、わりと、がなっちゃう感じの、慎ちゃんのユーリになっていた。
大阪の千秋楽、スタンディングになった時、うれしかったな~~~…。
でも、この時、イベント的な企画でリーディングがあって、その時はエーリクを演れて、オスカーが笠原さんで、これが、びっくりするほど良くて。
結局、たぶん、この時のリーディングが、2016のトーマにつながって。
5年ぶりに見た慎ちゃんのエーリクは、前と、ぜんぜん、違ってて。
トーマが、透けて見える。
優しくて、物静かだったっていう、フロイライン。「かんしゃく玉みたいな」エーリクのその中に、フロイラインだったというトーマが、透けて見える。
緩急、と言ってしまえば簡単だけど。
かんしゃく玉みたいに爆発したその直後に、果てしなく優しい声音。透けてみえるトーマ。
「君は彼そのものさ」っていうユーリの台詞が、3Dみたいに浮かび上がってくるような。
ユーリが見ているのはトーマで、そして登場人物もみんなトーマを追っている。
エーリクの中にあるトーマを見る。エーリクの中を通して、客席はトーマを知る。
出てこないのにトーマは確かに舞台上に存在して、ゆえにトーマの心臓がそこにある。
多分初めて、「トーマの心臓」っていうタイトルの意味、みたいなものが3Dになっていた(と、おもう)。
アンテに「ごめん」と言われた時のエーリクは確かにトーマで、「ぼく、似てるのかな、トーマに」とレドヴィに訴える時は確かにエーリクで、そして「エーリク!」とヘルベルトに階段上から呼ばれた時のエーリクは慎ちゃんだった。
ユーリと同室になった時の場面、ユーリに翻弄されるだけじゃなくて、そこがちゃんと駆け引きの場面になってたのは、2014に、及ちゃんのエーリクを間近で見られたからだろうし、ユーリを演ってみたからだろうし、そういうのが全部積み重なって、2016の慎ちゃんのエーリクにつながってるっていうことが。
ちゃんと、お金払ってあげたいというか(即物的)。
菩提樹の木の下、レドヴィがうたうトーマの詩、多分、うたい終わってから泣く場面、最初っからごーごー泣いちゃってるの、ほんとに好きだった。
林さんが演ってる時もそうだった、最初っからごーごー泣いちゃうの。
エーリクが生きている時、慎ちゃんも生きてるんだ、と思ってた。
アンドロイドみたいな、不思議ちゃんのくせに、ソツがなさすぎる君の、生きてる実感。
エーリクの中にそれがあって、そして、2016は、同時に、トーマを透けて見せていた。
2人のお父さんの隣に立つ時、それはエーリクであり、トーマであり。
「ぼくの姿形がどんなでも」という、極端にその言葉が説得力を持った2016。
生きている。(たとえ、この世からいなくなっても)。生きている。
小さなステージの上で、たしかに、生きている。それを、手の中につかんだような、そんな、実感があった。
大入り満員すぎた千秋楽。ライフでこんなサンモールがいっぱいになったの、ファントムの初演の時以来じゃないかな…。少なくとも自分が座布団席見たのはその時以来。
シドが出てくる場面で客席の泣きのスイッチが完全に入って、そっからトーマの両親の場面までノンストップで、オスカーとユーリの最後の場面はもうなんていうか、これが終わってしまう、っていうことに泣いちゃってるような。
千秋楽の前、3月9日。舞台上での、トーマが陸橋から飛び降りた日。
終演後のイベントはリーディング。谷川俊太郎の詩を、3編。
まず、ユーリ。『魂のいちばんおいしいところ』
そうしてあなたは自分でも気づかずに
あなたの魂のいちばんおいしいところを
私にくれた
次に、オスカー。『朝』
百年前ぼくはここにいなかった
百年後ぼくはここにいないだろう
あたり前のようでいて
地上はきっと思いがけない場所なんだ
ぼくを殺すかもしれぬけものとすら
その水をわかちあいたい
最後に、全員で、『生きる』
『生きる』の前、司会の曽世さんが説明してる時から、慎ちゃんが、ものすごく、なんというか、発光してた。
自分でスポットライトを出して、わくわくした空気を出して、あ、次、エーリクから始まるんだ、って。
果たして、『生きる』の第一声は、エーリク。
生きているということ。今、生きているということ
君がエーリクでもトーマでも、アンドロイドでも、不思議ちゃんでも。
今、そこに、ステージ上で、慎ちゃんが、生きていられるということ。
君がエーリクでも、トーマでも。
そこで、生きているということ。
生きていた、ということ。
千秋楽のカーテンコール、オスカー笠原浩夫は、えらくさわやかに手を振って。
「さよなら!」
と、言った。
さよなら、トーマの心臓2016。
ステージの上、そこでしか生きられないと言った君が確かに、
生きている、ということ。
今、生きている、ということ。
それを、確かにこの手の中に。
また、いつか!