300回書いてるけど(300回は嘘。盛った)自分は最初フリフラに懐疑的で、でもデジタリアンの初日を見てフリフラ肯定派になりました、それはそれは華麗に手のひら返したなって感じでしたマジで。
5×20の、いつの東京ドームだったかな、マジで2階のど正面てっぺんだった時、近くにいたお若いおふたり連れのお嬢さん方が、下からゆっくり光が上がってくるのを見て
「くる!」
って言いながら、ペンラをふたりでぱっと、それはそれは高々と上にかかげて、下からゆっくり上がってくる光をつかまえようとしているのを見た時に、
じゅーん!!!!!じゅーんにこれを!見せて!あげたい!
と思ってしまうくらいには自分はじゅーんのことも嵐のことも好きなので。
フリフラは、嵐がなんとかコンサートで使えるようにしようとして試行錯誤をくりかえして、フリフラ、っていう単語をこちらが耳にしてから、実際にコンサートで使えるようになるまでに時間がかかっているわけで、そういうふうにしてさ、年月をかけて、あれは嵐がつくってきたもんだからさ。
あれは、嵐が育ててきたもんだから。
究極、誰にも理解されなくたっていいんだよ、嵐が理解してれば。
じゅーんはそんなことでくじけないから大丈夫よ。
…というようなことを、最近人に話す機会がありました。
いや、制御ペンラの件で荒れててぶーぶー、みたいな話をされたから、
「それはうちの解雇の時とどっちが荒れてるの?」
と聞いたら
「それは比較対象にするものではない」
とマジレスをくらいましたどうもみなさんこんにちはお元気ですか(挨拶)。
最近のわたしはえだりょっていう人たちとか山本亮太さんっていう人が出るって言うから、今まで行ったことがないタイプのイベントに行かされていて体力的にしにそうな時もありますが基本元気です。
おたく生活的に激動すぎる数年をくぐり抜け、今はなんというか、人の意見とか、人がどう思ってるかとか、いわゆる業界にどうとらえられているのかとか、いわゆる世間がどう思うのかとか、そういうことの一切が気にならなくなっていて、もしかしてこれを解脱というのでは!?みたいな境地に陥ったりしています。
不思議なもので、解脱の境地になったら、昔のことも、案外と思い出せるようになった。
ああ、今日24日だな、って。
ドームで開演前に、グリーンに染まる会場と、地響きみたいな歓声を聞いたな、って。
名古屋の全身タイツとか。あの時、クリスマスの時だけ衣装に小さいクマみたいなブローチっぽいかざりがついてたな、とか、クリスマスの時だけ雪が降ってきた歌ったな、って。
振り返る、という感じではないんだけど。
思い出せるようになった。案外と。
わたしはね。
ひとは、衝撃を、受け止められないものだと思ってるんです、よ。
それは、誰かがこの世からいなくなってしまうというまさに衝撃でしかないこともあれば、嵐の休止だってそうだし、うちのひとの解雇だってそうだし、あとは、ピアスを片方なくしたとか、そういう、一見小さいようなこともね。
本人にとって衝撃的なことは、受け止められないんだと思う。
たとえ時間がたっても、受け止める、ということは、不可能なことであって、だから、乗り越える、ものでもないんだろうと思う。
「衝撃的なことがあった」というその事実と向き合って、その事実に対処することはできるけど、それは「受け止める」ということではないな、と、そんなふうに思うようになりました。
その事実に対して対処するし対応する。けど、受け止められないから受け止めない。
のりこえる、ということでもないだな、って。
それでもいいんだな、って。
そのようなことを考えながら、あの日客席でみんなたちが自主的に制御した一面のグリーンを、1曲目もそのまま一面のグリーンで自主的に制御し続けたことを、フリフラとは制御されるものではなく、制御することでそれぞれの手の中に光をつかまえにいくものだとその時感じたことを。
なんとなく、思い出したり、しています。
So Merry Christmas!
12月24日にどこかの会場で一緒だったみんなたち、おたんじょうびおめでとう!